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札幌地方裁判所 昭和44年(ワ)1886号 判決 1977年5月26日

原告

青砥久

右訴訟代理人

黒木俊郎

被告

北海道

右代表者

堂垣内尚弘

右訴訟代理人

臼居直道

右指定代理人

国沢勲

外四名

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金九〇八万五、三四三円及び内金八〇八万五、三四三円に対する昭和四三年九月二四日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二、請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一、請求原因

1  当事者

(一) 原告は、大正六年五月一八日生であり、もと酪農業に従事していたが、昭和四一年八月頃以降は札幌市内の塗装店等においてセールスマン等をして稼働していたものである。

(二) 被告は、札幌医科大学を設置し、その附属施設として札幌医科大学附属病院(以下、単に札幌医大病院という)を置いているものである。

訴外桑名幸洋、同榊山悠紀士、同三浦健司は、被告により採用され、札幌医大病院に勤務し、その第一外科において(以下、単に第一外科という)診療に当つていたものであり、訴外柳沼剛は無給医局員・研究生として同病院に勤務し、前記訴外桑名らの指揮、指導の下にその診療に従事していたものである。

2  被告の不完全履行による損害賠償責任(主位的)

(一) 医療契約

原告は、昭和三九年頃虫垂切除手術を受けたことがあつたが、右手術痕周囲の回盲部が膨隆し、かつ、右下腹部に疼痛を伴い便秘がちであつたので、昭和四三年九月三日札幌医大病院の第一外科において、同科所属の訴外守屋医師の診察を受け右の症状を訴えたところ、守屋医師は、同月一三日原告に対し、虫垂切除後腸癒着障害があり、その治療のためには右腸癒着障害除去手術が必要である旨診断した。そこで原告は同月一六日札幌医大病院第一外科に入院し、右手術治療を委託した。

よつて、ここに原告と被告との間に、原告の腸癒着障害に関する病的症状の医学的解明及びその治療を目的とする準委任契約が成立した(以下、単に本件医療契約という)。

(二) 不完全履行

(1) 前記訴外柳沼医師が執刀医、訴外桑名医師が第一助手、訴外榊山医師が第二助手、訴外三浦医師が麻酔司と夫々なり、同月二四日午前九時三〇分から一〇時二〇分迄の間札幌医大病院中央手術場において、原告に対する右腸癒着障害除去手術(以下、本件手術という)が行なわれた。そして、原告は同年一〇月九日、右腸癒着障害の治癒により札幌医大病院を退院したものである。

(2) ところで、訴外柳沼医師は、右手術施行に際し原告に対し腰椎麻酔を施すため、右手術室において原告を手術台上に背をまるめて側臥させ、その第三及び第四腰椎間(以下、単にL3―L4間という)に穿刺針を刺入した(以下、これを本件腰椎麻酔という)。

(3) ところが、原告は右穿刺針が馬尾神経根層に刺入されたと思われる瞬間、その右睾丸及び右足の一部に電撃的激痛を感じたので、思わず大声でその苦痛を訴えたのに、柳沼医師は「黙つていて下さい。」と言葉厳しく原告を叱責し、そのまま穿刺針の刺入をし、次いで引続き麻酔薬の注入をした。そのため、原告は更に右睾丸及び右足全体に強烈な激痛を受けたのである。

(三) 後遺症の発生

前記柳沼医師らは、同日午前一〇時二〇分頃右手術を施行し終つたのであるが、原告は右手術当日の夜に入つてから尿閉塞および右足麻痺が発現し、右尿閉塞については、以後一日一ないし二回の通電治療を受けた結果約二週間で常態に復したが、前記右足麻痺については、以後一向に回復せず、昭和四三年一〇月九日同病院退院後も左記の通り治療を受けたものの、その間その症状には殆んど変化がなく、同症状は固定化したものである。

(イ) 昭和四三年一〇月一五日から同年一二月四日まで(毎日)

札幌医大病院通院

(ロ) 右同年一二月一〇日から昭和四四年三月三一日まで

登別整形外科病院入院

(ハ) 昭和四四年四月二二日

国立札幌病院通院

(ニ) 昭和四三年一一月六日、同月八日、同月一一日、昭和四四年六月一八日から同年一二月二四日まで(毎日)

北海道大学附属病院(以下、北大病院という)通院

(ホ) 昭和四五年一〇月一四日から同月末まで

東京大学附属病院(以下、東大病院という)通院

右麻痺症状(以下、本件後遺症という)の範囲は本件腰椎麻酔の穿刺針の刺入のなされた部位から肛門右側にかけての腰部及び右大腿後部から膝下全部にまで及ぶもので、その程度は熱湯を浴びても全く知覚を感じないという程重篤なもので、以上要するに、「右下肢に知覚消失―鈍麻あり、運動障害中等度、歩行・仕事後に浮腫出現、シビレが絶えずあり」というものであつて、それはまた身体障害者福祉法上の障害程度第四級に該当するものである。

(四) 因果関係

原告は、本件手術以前においては前記のような麻痺や知覚異常が全くなかつたものであり、又、本件手術自体は、その施行経過において何ら異常なくなされてその目的を遂げ一応成功しているにもかかわらず、本件手術直後に本件後遺症が出現していることからして、本件後遺症は本件腰椎麻酔施行に起因するものというべきであり、更には、訴外柳沼医師が本件腰椎麻酔施行に際し、穿刺針の刺入により原告の馬尾神経を切損したため、本件後遺症が発現したものであり、仮に然らずとする訴外柳沼医師が器具および手術部位の消毒を不完全にしたため、又は、変質汚染された注射液を注入したため本件後遺症が発現したものである。

(五) 責任

被告は、本件医療契約に基き、その履行に当り信義に従い誠実に診療を行うべき義務を負うことは勿論であるが、更に、治療行為に伴つて原告の身体に伴つて原告の身体に無用の傷害を及ぼすことのないよう防止すべき付随義務を負うものである。腰椎麻酔の施術にともない不可避的に本件のような麻痺等の後遺症が生ずるわけではないから、被告の履行補助者たる訴外柳沼医師は本件腰椎麻酔の施術に当り右付随義務を怠つたものというべく、しからば、被告は自己の責に帰すべき事由がないことを主張立証しない限り、右不完全履行により原告が蒙つた後記損害につきこれを賠償すべき責任を負うものというべきである。

3  被告の不法行為による損害賠償責任(予備的)

(一) 注意義務

腰椎麻酔により種々の後遺症が生ずることは、かねて知られているところであり、特に本件のような下腹部手術においては永続性の神経麻痺を生ずる危険が大きいのであるから、医師としては腰椎麻酔を実施するに際しては、

(イ) なるべく細い穿刺針を使用し、患者の様子を見ながら針の刺入や薬液の注入を慎重に行い、患者が電撃痛による反応を示したような場合には、針と神経との接触が推定されるから、針を後退させたり、刺入点を変えたり、腰椎麻酔の施行を一時中止したりするなどの対応処置をとり、穿刺針による馬尾神経を損傷しないようにすべき注意義務

(ロ) 腰椎麻酔に使用される器具や術者の手指、患者の皮膚等を完全に消毒し、腰椎麻酔に際して患者の体内に細菌が侵入しないようにすべき注意義務

(ハ) 麻酔液につきそれが変質したり、異物の混入しているようなものを使用しないようにすべき注意義務

以上のような注意義務があるというべきである。

(二) 過失

しかるに、訴外柳沼医師は前記のとおり、本件腰椎麻酔の施行に際し、原告においてその睾丸および右足の一部に電撃痛を感じてその苦痛を訴えたにもかかわらず、これにとり合わなかつたのみか、針を後退させて十分に安全を確認する等の処置をとることもなく、漫然針の刺入及び麻酔液の注入を続行したのであるから、同医師には前項(イ)の注意義務の違反があつた。

また、訴外柳沼医師は前記本件腰椎麻酔施行に際し、使用器具、術者および患者の消毒を怠り、かつ、変質したり細菌により汚染された麻酔薬液を注入したものであるから、この点につき柳沼医師に前項(ロ)及び(ハ)の注意義務の違反があつた。

(三) 責任

訴外柳沼医師は本件手術当時いわゆる無給医局員であつたが、本件手術は、札幌医大病院第一外科としてその手術室において実施され、しかも、同大講師桑名医師を責任者とした四名の医師団によつて共同して施術されたものであるから、被告は、民法第七一五条により訴外柳沼医師の使用者として、医師が原告に対して加えた本件後遺症によつて蒙つた後記損害を賠償すべき義務がある。<以下省略>

理由

一不完全履行について

1  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

2  医療契約の成立

原告は、昭和三九年頃虫垂切除手術を受けたことがあつたが右手術痕周囲の回盲部が膨隆し、右下腹部に疼痛を伴い、かつ便秘がちであつたので、昭和四三年九月三日札幌医大病院第一外科において同科所属訴外守屋医師に対しその旨訴えてその診察を求めたこと、訴外守屋医師は同月一三日これに対し、腸癒着障害があり、この治療のためには右腸癒着障害除去手術が必要であると診断したこと、そして、原告が同月一六日第一外科に入院し右手術治療を委託したことは当事者間に争いがなく、右事実によれば、原告と被告との間には、昭和四三年九月一六日原告の腸癒着障害に関する病的症状の医学的解明及びその治療を目的とする準委任契約が成立したものということができる。

3  手術の実施

前記訴外柳沼医師が執刀医、訴外桑名医師が第一助手、訴外榊山医師が第二助手、訴外三浦医師が麻酔司として夫々担当して、同月二四日午前九時三〇分から一〇時二〇分迄の間札幌医大病院中央手術場において、原告に対し、右腸癒着障害除去手術を行つたこと、訴外柳沼医師が、その際原告に対し腰椎麻酔を施すため、右手術場において原告を手術台上に背を丸るめて側臥させ、そのL3―L4間に穿刺針を刺して腰椎麻酔を行つたことは当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、訴外柳沼医師らは、本件手術施行に当り原告の右入院後なされた諸検査(心電図、X線像、血圧)、などに全身所見、前病歴等を加えて、原告が腰椎麻酔の禁忌状態でないことを確認したうえ、手術当日の午前八時ころ前投薬としてラボナ錠一〇〇ミリグラムを経口より、又、アストロピン0.5ミリグラムも皮下注射により夫々投与したこと、訴外柳沼医師は右腰椎麻酔施行に際し二二番ゲージの穿刺針を使用したこと、ところで、原告は右穿刺針が硬膜を破つて脊髄液中に入つたことを感じた時に、その右睾丸及び右足膝の部分に電撃痛が走つたので、思わず大声で「痛い、痛い」と声をたてたところ、訴外柳沼医師は「黙つていてください」と原告をたしなめ、特段右穿刺針を後退させたり刺入点を変えたり、又は、腰椎麻酔の施行を中止したりすることなく、右刺入を続行し、次いで穿刺針からスタイレツトを抜いて、髄液の流出およびそれに血液が混入していないことその他異常のないことを確認したうえ、等比重ヌペルカイン1.8CC(スイスのチバ製薬のもの)を注入したこと、訴外柳沼医師は、右腰椎麻酔施行後本件手術に入り、まず原告の下腹部正中切開にて腹腔を開いたところ、大網が虫垂断端及び手術創痕の一部(約五センチメートル)と癒着していたので、これらを剥離して癒着していた大網を縫縮し、また、S字状結腸の部分にも線維状の癒着があり屈曲していたので、これを鋭利に剥離し遊離したこと、次いで訴外柳沼医師は手術創を三層に縫合し、手術を終了したこと、手術所要時間五〇分術中出血三〇CC、補液三〇〇CC、手術中一過性の血圧下降があつたため、エフエドリン一Aとエホチール1/2が使用されたこと、を認めることができ、<証拠>中これに反する部分は措信しがたい。

そして、原告はその腸癒着障害が治癒したので昭和四三年一〇月九日札幌医大病院を退院したことは、当事者間に争いがない。

4  合併後遺症状の発現

<証拠>によれば、以下の事実が認められる。

原告は手術当日の夜八時ころ左足については麻酔が切れ感覚が戻つたものの、右足の感覚は戻らず、また、その晩は尿閉の状態になつたので、午後一一時ころと翌二五日朝八時ころの二回にわたつて、導尿を受けた。原告は、同日右の知覚異常と尿閉の症状を訴えたので、担当医師は同月二六日右知覚異常の治療のためにレチゾール及びアロピラザルブロを投薬し、更に九月三〇日からは通電低周波療法を行つたが、前記退院時においても右知覚異常は完治しなかつた。そして、その麻痺の範囲および程度は、腰椎の前記注射部位から下方へ臀部後部、右睾丸、肛門の右半分、右足下膝にかけての範囲が知覚鈍麻の状態であり、さらにその膝から下の部位はほとんど知覚を感じない知覚喪失の状態であり、また、その歩行にも足を引きずる程度の障害があつた。そして、原告は更に右症状の治療のため、昭和四三年一〇月一五日から同年一二月四日まで札幌医大病院に毎日通院し、次いで同年一一月六日、同月八日、同月一一日北大病院に通院し、更に同年一二月一〇日から翌四四年三月三一日まで登別整形外科病院に入院、昭和四四年四月二二日国立札幌病院に通院、右同年六月一八日から同年一二月二四日まで前記北大病院に毎日通院、昭和四五年一〇月一四日から同月末まで東大病院に通院して、診断及び各種検査、並びに投薬、通電などによる理化学療法を受けたが、結局その症状に変化はなく、症状は固定化した。そして、更に原告の右下肢についてその症状をみると、膝蓋腱反射及びアキレス腱反射の異常、筋電図における右下肢一部筋肉の異常、筋力検査における右下肢の一部筋肉の筋力の若干の低下があり、歩行は出来るものの正常な歩行というものではなく、足を引きずつたり、長距離の歩行はできないという具合で、歩行障害が残つており、又、右第三腰神経の知覚鈍麻、右第四腰神経、右第五腰神経、右第一ないし第五仙骨神経の知覚喪失がある。又、原告は昭和四四年一〇月八日指定医師から身体障害者福祉法上の障害第四級に該当する旨の診断を受けた。

以上の事実が認定でき、<る。><以下省略>。

5  因果関係

<証拠>によれば、原告には、本件手術以前は何ら前記の如き右下肢知覚障害、運動障害は存しなかつたこと、脊椎麻酔又は腰椎麻酔は、クモ膜下腔に局麻剤を注入して脊髄の前根、後根を麻痺せしめてえられる麻酔であり、その普通の方法の概要は、患者を側臥位とし背中を消毒後、低位脊麻においてL3―L4間の正中線において、針を脊柱のすべての面に直角とし、次いで針を頭部にやや向けて徐々に刺入して行き、硬膜を突破したのが感じられたらスタイレツトを抜き、脊髄液の逆流を確認し、次いで、局麻剤を0.5ml/secの程度で注入し、再びスタイレツトを入れて穿刺針を抜くという方法をとるものであるが、その合併症として、麻酔中には、血圧降下、呼吸抑制、悪心嘔吐が見られることがある外、麻酔後の合併症として、髄膜の刺戟等を原因として頭痛が発症することがあり、又神経障害として、腰背部痛等の外馬尾神経麻痺の発症が見られることがあること、そして、右のうち下肢末梢神経麻痺は0.11%の頻度で発症が見られること、ところで馬尾神経の損傷については機械的或いは化学的損傷が考えられるが、機械的損傷については馬尾神経線維は脳脊髄液中にいわばのれんが下つている如く浮いているものであり、かつ、弾力性を有しているものであるため、腰麻針の刺入に際して針尖がこれに一時的に触れることがあつても、これを切損することの生ずる可能性は極めて寡く、ただ予め軟膜と馬尾神経とが癒着していたような場合には、腰麻針の刺入により馬尾神経を損傷する可能性が考えられること、そして、化学的損傷については注入した薬液が特異な局所の状況により局在した如き場合においては神経線維が化学的に侵害される可能性が考えられること、右馬尾神経麻痺の症候群(尿閉、腰から下の感覚喪失と筋力減退など)は一般に腰椎麻酔直後より始まるものであるといわれていること、札幌医大病院の一般外科診療録にも原告の傷病欄に「腰麻後神経麻痺」と記載されていること、以上の事実が認められる。

ところで、右認定の原告の症状についてみると、これが右一般に報告されている馬尾神経麻痺の症候群と一致しており、また右症状も腰推麻酔の当日の夜から発現しているところ、腰椎麻酔前には原告に知覚障害、運動障害は存在しなかつたこと、札幌医大病院側でも腰椎麻酔による後遺症であることを認めるような所見を有していたことなどから考えると、原告の本件後遺症は本件腰椎麻酔の施行によつて発現した馬尾神経の機械的又は化学的損傷によるもの、即ち、右の間には因果関係が存在するものというのが相当である。

そこで進んで右馬尾神経の損傷が原告主張の如く機械的なもの、即ち、穿刺針による切断であるのか、又は、その他のもの例えば化学的なものであるかにつき検討するに、馬尾神経線維は脳脊髄液中にいわばのれんが下がつている如く浮いていて、かつ、弾力性があるため穿刺針の刺入によりこれを切損する可能性は寡いことは前示のとおりであり、<証拠>によれば、原告の右合併後遺症は、その知覚鈍麻および知覚喪失の範囲が前記の如くL3―L4から下方へ臀部後部、右睾丸、肛門右半分、右下肢に及ぶものであるうえ、長距離歩行困難の運動障害も存するものであるところ、脊髄前根は運動神経を支配し、脊髄後根は知覚神経を支配していることから見れば、損傷された神経線維は一本だけではないと見られること、他方、前記本件穿刺針の如く細い針による一回の刺入により、神経線維が損傷されるとしても精々一本程度であると見られること、刺入穿刺針が馬尾神経に触れたときには、患者はそれに応じて電撃痛を感ずるものであるが、それは必ずしも切損を意味するものではないこと、注入された薬剤は注入速度および量、比重、患者の体位に応じて分配、対流によつて広がるものであることが明らかであり、右事実からすれば本件注入薬たるヌペルカインによる化学的損傷であると推認する余地を排することはできないことなどから、原告の右馬尾神経損傷が穿刺針の刺入による切損によるものとみることは、未だ困難であり、結局その証明は不充分といわなければならない。

尤も、鑑定人古川幸道の鑑定の結果及び鑑定証人古川幸道の証言は、第一に、原告は何らの手術的処理を加えなくても同じような結果になつたことも想像できること、第二に、何らかの潜在的な病変が脊髄神経その他にあつて、それが手術時の強制的な体位によつて顕在化してきたことも考えられること、第三に、腹腔内における手術操作そのものによつて誘発されるおそれもなしとしないことなどをあげ、本件腰椎麻酔と右後遺症状との間には因果関係があるとは断定できないというものである。しかしながら、右鑑定は、もつぱら札幌医大病院の診療録等によつてなされているため、本件後遺症の発現時期を昭和四三年九月三〇日(腰椎麻酔後第六日目)とし、その日に「陰のうを中心にしびれ感があり、同日から通電治療が開始された」として、前記判断がなされているものであつて、したがつて右鑑定は前記のように原告が手術当日より馬尾神経麻痺の症候群にあたる症状を訴えていたという事実を抜きにしてなされたことになるから未だ採用し難い。

また、右第二点は、<証拠>によれば、原告は前記虫垂切除手術を受けた際にも腰椎麻酔の施行を受けたが、この時は何ら異常はなかつたことが認められるところ、右鑑定にいう潜在的病変が明らかではない以上、その可能性が極めて稀有なものといわなければならないから、右鑑定の妨げにはならないものと考えられる。更に、第三点についても、本件虫垂癒着障害除去手術自体はその目的を遂げ成功しており、その手術経過において不手際があつたと疑うべき事実はなく、また、原告にみられるような広範囲の神経障害が、腰椎麻酔以外の本件手術操作によつて発生するとするも、鑑定において手術操作の中におけるその具体的発生可能な原因が摘示されておらず、特に本件証拠によつても、その手術操作中に後遺症発生の可能性さえも窺うことは困難であるから、やはり未だ右認定を妨げることはできない。

又、<証拠>によれば、原告は昭和四四年四月二一日第一外科の主任教授高山坦三の診察を受けたことを認めることができるところ、原告本人尋問中には高山教授が右診察の際原告に対し、本件後遺症の原因について穿刺針が馬尾神経を突き刺し髄液を吸上げたためではないかと語つたと述べている部分があり、また、<証拠>(昭和四四年一二月四日付北海道新聞)によれば、同新聞は高山教授が同紙記者に対し、原告に右のような説明をしたことを肯定した旨の報道をしたことが認められるが、しかしながら、<証拠>によれば、高山教授は原告に対し、馬尾神経が「切損された」ことを肯定した趣旨の話をしたものではなく、単に穿刺針が馬尾神経に「当つた」との趣旨で説明したに過ぎないことが認められるから、右原告本人尋問の結果によるも本件後遺症が穿刺針による馬尾神経の切損に基づくものと認めることはできず、他にこれを認めるに足る証拠はない。

6  診療債務履行不完全の存否

そこで、被告の診療債務殊に本件腰椎麻酔施行につき履行不完全があつたか否かにつき検討する。医療契約に基く医師の具体的診療債務は、患者の具体的病状に対応して当時の医学上の水準に基いて選択、決定され、また、その選択された治療行為の施術も当時の医学水準にしたがつてなされるべきものであるから、医療契約上の医師の不完全履行をいうためには、その患者の具体的症状と医師がその時選択すべきであつた治療行為が特定され、医師のなしたその選択について当時の医学水準において医師に非があつたこと、または、その選択された治療行為の施術について当時の医学氷準に基づいて医師に非があつたことが必要であるといわなければならない。

(一)  先ず本件腰椎麻酔の施術の際に、原告の右睾丸及び右膝の部分に電撃痛が走り、原告が苦痛を訴えたにもかかわらず、執刀医の柳沼医師がそのまま麻酔の施術を続けたことは前示認定のとおりである。そこでこのことから訴外柳沼医師につき注意義務不履行であつたといえるか否かにつき検討する。右電撃痛は、必ずしもそのとき馬尾神経の切損があつたことを意味するものではなく、穿刺針が馬尾神経に触れたことのみによつても生ずるものであること、馬尾神経は髄液中にすだれのように下つていて髄液中において一定の限度で浮動しうるため穿刺針が馬尾神経に触れたとしても、馬尾神経の方が針から横にずれるため、ゆつくりした速度で慎重に刺入がなされている限り直ちに馬尾神経の切損に結びつくものとはいえないこと、原告の後遺症の範囲は広く、その障害を受けている神経は、右第三ないし第五腰神経、右第一ないし第五仙骨神経に及んでいるが、前示認定のように穿刺針の刺入は一回しか行なわれておらず、一回の刺入行為によつてこれらの神経が一度に切損を受けることは解剖学的に考え難いことは前示のとおりであるところ、<証拠>によれば一般的いつて細い腰椎穿刺針が使用された場合(本件は二番ゲージの穿刺針)には注射針刺入だけにより馬尾神経の切損が生じることは診療に当り殆んど考慮に入れなくてよいとしていることが認められる。

<証拠>によれば、腰椎麻酔施術中において穿刺針が馬尾神経に接触して、電撃痛が走るようなこともかなりの程度で起ることが認められるところであり、また<証拠>によれば腰椎麻酔における合併症としての一過性及び永続性障害のいずれにおいても、腰椎穿刺時に血性髄液を得た場合、穿刺を二回以上反復した場合の外下肢への電撃痛を認めた場合後遺症が発生していることが多いことが認められ、確にその限りで電撃痛を起させないように処置すべきであるということはできるが、穿刺針を馬尾神経に接触させないようにする具体的方法が医学上存在していると認めることはできない。したがつて、穿刺針と馬尾神経との接触を防止する方法が医学的に確立しているものといえない以上、訴外柳沼医師が本件腰椎麻酔施行に際し穿刺針を以て馬尾神経に接触せしめたことを以ては、未だ訴外柳沼医師に注意義務に欠けるところがあつたものと断ずることはできない。

なお、本件合併症は原告の馬尾神経が化学的損傷を受けた可能性、即ち注入した薬液が特異な局所の状況により局在したために、当該馬尾神経が化学的に侵害されたものと推認し得る余地があるものであることは、前示のとおりであるところ、<証拠>によればこの場合にもこれを予想し防止すべき方法は未だ獲得確立されていないことが認められるから、この点についても未だ訴外柳沼医師に診療上の不完全履行があつたということはできない。

原告本人尋問中には昭和四四年四月二一日に高山教授が原告に対し病院側の手落を認め、ある程度の補償費を出すと申し出た旨の部分があるが、<証拠>によれば、高山教授は原告の後遺症の治療について札幌医大病院で十分治療を尽すよう取り計い、その治療費についても病院の方でできる限り面倒をみようというものであつたことが認められ、高山教授が病院側の過失まで自認したものとは認めることはできず、右原告本人尋問の結果は採用しがたい。

(二)  次いで穿刺針による神経の切損以外の点につき柳沼医師に履行不完全があつたか否か検討するに、<証拠>によれば、手術器具、術者の手指、患者の皮膚の消毒も十分なされたこと、麻酔液は市販のチバ製薬のヌペルカインを使用したが、特に変質や異物の混入もなかつたこと、穿刺針刺入に当り特段濁つた髄液や血液の混入したことはなかつたことが認められるところであり、他に麻酔液の管理及び器具等の消毒に手落ちがあつたことを認めるに足る証拠はない。

そうして見れば、訴外柳沼医師につき診療契約上の債務の履行につき善管注意義務を怠り不完全であつたものということはできないものといわなければならない。

しからば、その余の点につき判断するまでもなく、被告の不完全履行を原因とする原告の損害賠償請求は理由がない。

二不法行為の成否

原告において、訴外柳沼医師には本件腰椎麻酔施行に当り、穿刺針により馬尾神経を損傷せしめないようにすべき当然の注意義務、並びにその使用器具及び手術部位の消毒を完全になすべき注意義務、更に、変質汚染のない麻酔薬を使用すべき注意義務があるのにこれを怠つた旨主張するが、何れもこれを認めることができないことは前示のとおりである。

しからば、その余の点につき判断するまでもなく、原告の被告に対する不法行為を原因とする損害賠償請求は理由がないものといわなければならない。

三結論

以上の次第であるから、原告の請求は何れもこれを棄却し、訴訟費用の点につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(磯部喬 畔柳正義 平澤雄二)

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